1999年11月28日日曜日

自動車に乗れなくなる日(昔HPに書いたコラムを転載)



「自動車に乗れなくなる日」のことを考えたことがあるだろうか。


自分が年をとって「もう免許は返納じゃ」という日のことではない。石油資源が枯渇し、また地球環境が悪化して、もう自由に自分の好きなところに、好きなときに、自動車・バイクで行くことはまかりならん、そういう時代のことである。


そんな時代はまだまだ先じゃないか、自分たちには関係ないよ、と思った人も多いだろう。しかし、僕はそうは考えない。少なくとも今のガソリンや経由を燃やして走る自動車を自由に乗り回すことができなくなる時代は、そう遠くない将来にやってくるはずだ。


今、自動車業界では盛んに合併が行われ、規模を拡大すること(=総利益がどんどん大きくなる)によって多額の資金を調達し、それを次世代の自動車の開発に充てている。なぜ自動車メーカーが次世代の自動車の開発に血眼になるのか?それは他でもない自動車メーカーが「現在の自動車に未来はない」と判断しているから。


植物の死骸、動物の死骸が何万年もかかって変質し、エネルギーが濃縮され、石油はできている。その地球の遺産というべき優れたエネルギー密度を持つ石油を人間は百年足らずでほぼ使い切ろうとしている。今まで使った石油をもう一度作るには、やはり何万年もかかるはずだ。だから石油は必ず枯渇する。


そしてエンジンの排気ガスをいくらきれいにしたところで、化石燃料(C)をエンジンで燃やせば(=空気中の酸素O2と結びつければ)CO2が必ず出る。これが地球温暖化ガスである、1990年のレベルに削減せよと否定されたら、エンジンの原理そのものを否定するしかない。


この二つの理由から、エンジンの時代は近い将来に終わると判断しているのだ。


またエンジンがこの世に誕生してから現在に至る百年もの間、当然エンジンに代わる推進装置の研究は行われたが、その間(原爆やコンピュータはできても)エンジンよりも効率、使い勝手の優れた推進装置の原理は登場しなかった。今までの自動車の開発は(それでも何十億って金がかかるんだけど)百年前に発見されたエンジンの原理を使ってそれを個々の車に応用することだった。


しかし次世代の自動車の開発はいままで百年間見つからなかったエンジンに代わる新しい推進装置の原理の発見なのだ。これには今までの応用技術の開発と違い、桁違いのカネ、桁違いの時間、優秀な頭脳を必要とするため、それらを一社でまかなうことは到底不可能なのだ。


それをまかなうため、合併や業務提携による規模の拡大が盛んに行われている、これが現在の自動車業界を巡るストーリーである。


しかし、いまのところ次の100年を安泰に乗り切れる新たな原理は未だ発見されていない。燃料電池が本命とされているが燃料となる水素をどうやって供給するか、という問題が解決されていない。水を電気分解すれば水素は得られるが、その電気をどうやって作るのか。化石燃料から作るならそれをそのままエンジンで燃やした方が効率がよい。


植物などから得られるメタノールを改質して水素を得る方法も提案されているが、現在使われている石油と同じだけのエネルギーを供給するにはどれだけの植物を栽培しなければいけないのだろう。またそうやって採取したメタノールもその改質時にCO2の排出を伴う。完全なクリーンエネルギーにはならない。


だから、僕は近い将来、個人的な交通機関(自家用車・バイク)による移動は制限され、最小限の、そしてできるだけ環境への影響を少なくしたバスや鉄道などの公共交通機関によって何とか人間の移動が可能になるのでは、と考えている。これが「自動車に乗れなくなる日」である。


ま、自動車が発明される前は人間は馬車に乗っていたのだし、現在の技術を持ってすればナリタブライアンのクローン馬に超軽量カーボン製の馬車を牽かせたりして、そういう状況になっても結構移動には不自由しないのかもしれないけれど。


結局長々と何が言いたいのか分からない文章を書いてしまったが、要は次の一文につきる。


「クルマ好きにはもうすぐ冬の時代がやってくる。その前に精々大好きなクルマに乗っておきなさい。」


”いつかはポルシェ”なんて言ってるうちに、ポルシェに乗れなくなる日がやってくる。乗りたい車がある人は上の理論をしっかり学習して車道楽に反対する恋人や奥さん、両親を説得し、子供が泣き叫ぼうと一家離散の危機になろうと自分の夢のクルマを今のうちに手に入れ、束の間の快楽に耽るように。


たかがクルマ、されどクルマ。(笑)