野外でブラスバンドかなんかでスーザフォンを吹くイベントにやってきた。
スーザフォンを置いて、しばらくあちこち見て回り、置いてあった場所に帰ってくるとスーザフォンは忽然と姿を消していた。うわあー困ったー、と騒いでいたら誰かが銀色に輝くスーザフォンを貸してくれた。おお、ラッキーとそれを吹くのだが、そのスーザフォンはなぜかラッパの先が下を向いている(普通のスーザフォンは正面を向く)ものだった。
どんな意味をもつ夢なのだろうか。
野外でブラスバンドかなんかでスーザフォンを吹くイベントにやってきた。
スーザフォンを置いて、しばらくあちこち見て回り、置いてあった場所に帰ってくるとスーザフォンは忽然と姿を消していた。うわあー困ったー、と騒いでいたら誰かが銀色に輝くスーザフォンを貸してくれた。おお、ラッキーとそれを吹くのだが、そのスーザフォンはなぜかラッパの先が下を向いている(普通のスーザフォンは正面を向く)ものだった。
どんな意味をもつ夢なのだろうか。
今カミさんが切り抜いてくれていたものを読んだ。私なりにザックリまとめると以下の一文。
非現実な夢想家と言われても、我々日本人は核に対する「ノー」を叫び続けるべきだった。
同意。効率がいくらよくとも、こんなに大きな、核兵器と同じリスクがあり、なおかつ何万年も安全に保管し続けなければならない危険なゴミを出すエネルギーはいらない。
電気が使えなくなってもいいんですか?という脅迫には微笑んでクーラーのスイッチを切ろう。
電力不足で日本の産業の競争力を心配する人には放射能汚染で日本の国土自体が空洞化する今の事態とどちらがよいのか考えてもらおう。
原爆忌にこの企画、中日新聞(東京新聞)ってすごいな。
iPhoneをいつものようにいじっていたら妻が一言。
「みんなよくもそんなに発信したいことがあるわねえ。私なんか発信したいことはなんにもない。」
そうなんだぜ、俺達はクリエイティブなんだぜ、と悦に入るも、待てよ。
われわれが発信していることは本当に発信すべきことなのだろうか。私が発信したり、他の人の発信を読む、その行為自体に、果たして意味はあるのだろうか。その行為にかける時間は壮大な無駄ではないのだろうか。
「ウェブはバカと暇人のもの」という本があり、前から読んでみたかった。早々に入手しよう。
飲み会で聞いた話。最近彼は職場が変わり、新しい上司と仕事をすることに。彼は私と同じく体積大きめなので体表面積も大きく、従って暑がり(笑)。デスクではマイ扇風機を用意して毎年夏を乗り切っていたそうな。加えて今年は節電モード。エアコン設定温度が28℃に上がり、ますます扇風機はフル回転だったそうな。
新しい職場でも早速扇風機を出してスイッチON! すると上司が一言。
「この非常時に何やってるんだ」
その後マイ扇風機は机上の楼閣、涼を呼ぶオブジェとして静態保存されているそうな。
この上司、私は思考停止だと思う。世間の空気に過剰に反応してるだけ。盲目的に信じちゃって何も自分で考えてない。非常時ってこの状態が何年も続くんだけど。電気の需給バランスは時々刻々報道されてるし、今のところ超余裕がある。危なくなればその時に扇風機を止めれば良いだけのこと。
それを「非常時」なんていう反論を許さない強い言葉で表現することに私は怒りすら感じる。このような性向は、日本人、いや日本文化の精神性に潜む非常に危険な暗黒面なのかもしれない。